FXについて
FXの魅力
夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線にこめて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという[116]。
手塚が影響を受けたもの
手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、長じて田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクちゃん』の模写をするようになったが、7歳の頃に出た謝花凡太郎によるミッキーマウスの海賊版単行本に夢中になりこの本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年ころまではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回以上観たという。手塚は「尊敬する映画人」として、チャーリー・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙げている。
夏目房之介は、「
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がマンガに持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに文学、演劇、宝塚文化を挙げている。幼少期の手塚の家には文学全集があり、よく外国文学を読み漁っていたという。後に漫画化したドストエフスキー『罪と罰』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、とくに『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年頃には関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている[118]。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の
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の人工的な風景に由来するものと見ている。
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才能と敵愾心
手塚のアシスタントであった石坂啓は、
FX
が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことをテレビ番組で証言している[要出典]。フリーハンドでかなり正確な円を描くことができ、揺れるタクシーの中や飛行機の中でもかなり正確な直線を引いたという[要出典]。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が書けなくなった」と体の衰えを語っている[要出典]。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であることを繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対するコンプレックスがあったとも言われている[120]。
漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に
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タッチを取り入れ、水木しげるの妖怪漫画が流行すると『どろろ』などの自作で水木風の点描を用い、大友克洋が注目されると大友風のタッチを取り入れるなど、その時々の流行に敏感に対応した。手塚は競争心・敵愾心が強かったことが知られており、ライバルの作家との様々な逸話が残っている(後段#関連のある漫画家を参照)。
速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。
医学者・手塚治
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上述のように手塚は医師免許を持っていたが、実際に医師として患者を診たことは無い(もっとも知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っている。手塚は旧制中学時代、栄養失調状態のまま厳しい教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というまでになった。このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動したため医師を目指したという。ただし
くりっく365
は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であったことも認めている。
医師としての専門は外科であり、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』などの作品に活かされている。ただし医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく基礎生物学領域のものであった。
戦後に設立された奈良県立医科大学に電子顕微鏡が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なおかつスケッチもできる日本で唯一の研究者となった[要出典]。頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文にまとめ、同大学はお礼の意味を込めて医学博士号を贈った[要出典]。学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)。『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されている。なお、同大学の図書館には、手塚が後に贈ったブラックジャックの絵が展示されている。
『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。
『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』刊行開始。
巌谷小波文芸賞受賞。
『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞受賞。
『ジャンピング』でザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリを受賞。
『おんぼろフィルム』で広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ受賞。漫画家生活40周年、『手塚治虫漫画 全集』完結により講談社漫画賞特別賞受賞。
『アドルフに告ぐ』により第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
体調悪化により急遽入院。胃がんと判明する。11月1日、大阪教育大学附属池田小学校にて生涯最後の講演を行う。
2月9日、胃がんのため半蔵門病院にて死去(60歳)。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。勲三等瑞宝章叙勲。日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
手塚治虫記念館1990年 - 東京国立近代美術館で回顧展。権威ある美術館で、死亡して1年足らずで回顧展が開かれた。漫画家の国立美術館での回顧展は空前絶後であるという。
全業績に対し第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
第4期手塚治虫全集刊行開始。1997年12月に全400巻完結。
兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が開館する。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初 舞台公演として『ブラック・ジャック 危険な賭け』『火の鳥』を上演。
米アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入り
『ブッダ』の英訳版がアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞。
2008年に生誕80周年を迎えることを記念して、手塚治虫作品を読者の手で選んで発行する『手塚治虫O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始される。
生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、純金製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、アメリカ・サンフランシスコでの手塚治虫展、広島国際アニメ−ションフェスティバル、東京国際映画祭で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映。
妻は手塚悦子(えつこ)。1999年に夫、手塚治虫に関する本を執筆している。映像作家の手塚眞(本名は真)は長男・長子。プランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子は長女・中子。舞台女優の手塚千以子(ちいこ(『千夜一夜物語』から命名))は次女・末子。姪に声優の松山薫がおり、手塚作品では『手塚治虫の旧約聖書物語』の吹き替えをした。俳優の手塚とおるは甥。長男・眞の妻は漫画家の岡野玲子。
手塚が『マアチャンの日記帳』などの新聞連載を始めた頃、同時期に長谷川町子の『サザエさん』(『夕刊フクニチ』)、南部正太郎の『ヤネウラ3ちゃん』(『大阪新聞』)などの新聞連載漫画が始まっていた。手塚は『大阪新聞』を介して南部と知り合い、もう一人武田将美を加えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成、たびたび3人で映画や漫画について話し合うなどしていた。当時は南部の『ヤネウラ3ちゃん』の人気が圧倒的で、3人組を意味する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思う人も多かったという[124]。
福井英一
福井の柔道漫画『イガグリくん』(『冒険王』1952年-1954年連載)は連載時絶大な人気を誇っており、当時手塚は福井を最大のライバルと見なしていた(『イガグリくん』のようなスポーツ・熱血ものを手塚は苦手としており、このジャンルの作品をほとんど描いていない[125])。1954年ころ、手塚は『漫画少年』連載の『漫画教室』の中で、ストーリー漫画の良くない例として『イガグリくん』を模した作品を登場させて福井の怒りを買い、福井の抗議を受けて馬場のぼるの仲介で謝罪している。手塚は翌月の『漫画教室』に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描き謝罪の意を表した。その1ヵ月後に福井は過労で急逝しており、手塚は死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ホッとした」という感情を覚え、そのことで自己嫌悪に陥ったと記している。[126]
藤子不二雄
藤子不二雄が1988年にコンビ解消した際、手塚は「これで同等に勝負出来る」とコメントしていた[要出典]。手塚の競争心は藤子両人に対しても発揮され、トキワ荘時代に赤塚不二夫や石森章太郎らを食事に招待した際、藤本と安孫子には声を掛けなかったことがあったという[要出典]。藤子・F・不二雄(藤本弘)は生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。手塚も「ドラえもんの人気にはかなわない」とコメントしたことがある[要出典]。藤子不二雄?(安孫子素雄)も藤本と同様に手塚を尊敬し、自伝漫画「まんが道」では手塚を最大の師として登場させ黒澤明、ウォルト・ディズニーと並ぶ「創作の神」として扱っている。